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と形式の多様化を生み、付合の珍奇と卑俗化に向うのである。その最盛期たる宝暦〜明和(一七五一〜七二)期に至って、東西期せずして前句付の付句の独詠化が進み、前句付は衰微に向う。大坂における『無題』と称する一句詠みと、江戸の川柳風狂句の成立がそれである。
以上、『俳文学大辞典』[前句何]の項をべ−スに、簡単に説明してきたが、いずれにしても、前句付は、連歌の付合、俳諧の修練、そして雑俳化という過程を経、ついには前句を取り去った付句の独詠化という新しい波に飲み込まれ、その長い歴史を閉じるのである。もっとも、その命脈は今日に及んでいるともいう。
川柳評前句付万句合興行
前項で説明したように、前句付最盛期の宝暦七年八月、浅草新堀端龍宝寺門前町の名主、柄井八右衛門こと柄井川柳が前句付の点者として立机した。
第一回の興行に投句された句はわずかに二百七句、勝句十三という万句には遠く及ばぬ惨憺たるものであった。しかし、翌年の最高は五千余、九年には六千余と寄句高も次第に増加し、五年後の宝暦十二年には一万句を越えること三回など、名実ともに万句合となり、当時活躍していた露丸・机鳥・収月・錦江ら二十名近い点者を圧倒し、以後、寛政元年九月までの三十三年間、前句付点者の第一人者として君臨するのである。
点者川柳の成功の理由は、卓抜した撰句眼があったこと、加えて和漢古今にわたる該博な知識を持ち、社会・人生の表裏・機微に通じていたこと、さらに名主という職掌にあったことが興行を有利にしたとも考えられる。また、興行地域を江戸に限定したこと、入選率が高く、点料が安かったこと、勝れた常連投句者に恵まれたこと、武玉川終刊による投句者の増加、柳多留刊行による人気の上昇、などなどが挙げられよう。しかし、これらはあくまでも外的な要因に過ぎない。根本的には、何よりも先ず、川柳の撰した句が他評の撰した句よりははるかに面白かった、というのが最大の要因だったと理解すべきなのかも知れない。
さて、『川柳評万句勝句刷』は、平成八年末ようやくその活字化を完結したが、その全貌をざっと眺めてみよう。
?川柳評万句合興行における勝句の刷物は、美濃判紙に勝句を列記したもので、創刊宝暦七年八月十五日開キから寛政元年九月世五日開キまでの三十三年間、現在一、三七四枚を確認、勝句数七二、七八○句。
?定例の開キは大体毎年八月から十二月まで毎月五の日に三回興行、定会の外に七月までに開催された所謂春期板の三九回九〇枚も現在知られている。
?投句の惣句高は、年間定会では明和四年が一三六、六一五員で十二枚板行、一万句を越える開き七十余回、二万

 

 

 

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